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最新研究による戦略とはなにか:経営・戦争・ゲームなど横断的理論からAI時代の戦略設計まで
1. はじめに
戦略というものは、計画、ビジネスモデル、ビジョンなど、さまざまな用語と混同することが多くあります。ビジネスだけでなく、戦争、チェスなどのボードゲームにおいても、戦略は言及されます。そもそも戦略とはどういうものでしょうか。
ここでは、最新研究を中心に網羅的に整理します。さらに、AI時代において、ビジネスにおける戦略に対してどのような影響があるのかについても記載します。
本稿の新規性は、以下の4点です。
分野横断で「戦略の共通の核」を抽出:経営学・戦争論・ゲーム(囲碁・チェス・ポーカー)という別々に発展してきた分野を比較し、いずれにも通底する定義(何を捨て、何に賭けるかを定めた検証可能な仮説)を導きます。
2020年代の最新研究を統合:実践としての戦略(Strategy as Practice)、仮説としての戦略(theory-based view)、能力としての戦略(Dynamic Capabilities)という近年の三つの研究潮流を、一つの定義のもとに整理します。この三潮流を横断的に扱った日本語の解説は、ほとんど存在しません。
定義から設計・手法まで一気通貫で体系化:「戦略とは何か」という定義にとどまらず、戦略ダイヤモンドによる5要素の設計方法、さらに強者・弱者それぞれの具体的な手法(型)までを、一つの体系としてつなげて解説します。
AIエージェント時代への含意を提示:AlphaGo以降の研究をふまえ、AIが戦略の定義・5要素・実践のそれぞれをどう変えるのかを論じ、「AIエージェント時代の戦略とは何か」という問いに回答します。
2. 戦略とは何か
2.1 戦略の定義
戦略とは何かについて、学術研究においては、分野ごとに以下のように捉えられてきました。
戦争
古代:戦わずして勝つ 最古の戦略書とされる孫子は、「百戦百勝は善の善なる者に非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」と述べ、戦闘そのものよりも、戦う前の態勢づくり(どこで・誰と・どの条件で戦うかの選択)を重視しました (孫子, 紀元前5世紀頃)。例:敵の同盟関係を切り崩して孤立させれば、敵は『戦っても勝ち目がない』と自ら判断して譲歩するため、戦闘なしで目的を達成できます。
近代:戦闘を目的に結びつける術 戦略の語源は古代ギリシャ語のstrategia(将軍の術)です。近代戦略論の出発点であるクラウゼヴィッツは、個々の戦闘をどう遂行するか(戦術)と、戦闘を戦争の目的にどう結びつけるか(戦略)を明確に区別しました (Clausewitz, 1832)。例:個々の戦闘に勝ち続けても、戦争の目的(講和条件)につながらなければ戦略の失敗です。
現代:力の創出術 現代の代表的な戦略研究者は、戦略を「力の創出術(the art of creating power)」と定義します (Freedman, 2013)。もし勝敗が資源の総量(兵力・資金)だけで決まるなら、戦う前に数を数えれば結果は分かるため、戦略は不要です。しかし現実には、いつ・どこで・どの条件で戦うかの選択次第で、同じ資源からより大きな成果を引き出せます。この「資源の総量」と「実際に発揮される力」のギャップを作り出す技術が戦略です。例:全体の兵力では3対10で劣っていても、敵が分散している場所と時間を選んで戦えば、その一戦だけは3対2の優勢にできます。資源は増えていないのに、選択によって力が「創出」されています。ビジネスでも、資金で劣る企業が競合の手薄なニッチに全資源を集中して局所的な1位を取るのは、同じ構造です。
ビジネス
古典:長期目標の決定と資源配分 経営学における戦略の最初の定義は、「企業の長期の基本目標を決定し、その目標を達成するために必要な行動方針を採択し、資源を配分すること」です (Chandler, 1962)。
ポジショニング:何をやらないかの選択 戦略の本質は業務の効率化ではなく、トレードオフを伴う独自のポジションの構築、すなわち「何をやらないかの選択」にあるとされます (Porter, 1996)。例:格安航空会社が機内食・座席指定・ハブ空港を「やらない」と決めることで、低コスト構造を大手が模倣できなくなります。
創発:実現されたパターン 実際の企業で実現された戦略の多くは、事前に策定された計画ではなく、日々の意思決定の積み重ねから事後的に浮かび上がる「創発戦略」であると指摘されています (Mintzberg & Waters, 1985)。例:ホンダの米国二輪市場での成功は、当初計画(大型バイク)ではなく、現場で売れ始めたスーパーカブへの対応から生まれたことが知られています。
多面的定義:戦略の5つのP 戦略という言葉が実際に使われる場面を観察すると、計画(Plan)、策略(Ploy)、パターン(Pattern)、ポジション(Position)、ものの見方(Perspective)という5つの異なる意味で使われており、どれか一つに絞ること自体が誤りだと整理されています (Mintzberg, 1987)。例:同じ会社の中でも、経営企画にとって戦略は「計画」、投資家にとっては「ポジション」、現場にとっては「パターン」として現れます。
ゲーム理論
全局面での行動の完全な指定 ゲーム理論では、戦略は「起こりうるすべての局面において、自分がどう行動するかを完全に指定した計画」と最も厳密に定義されます。自分の戦略の良し悪しは単独では決まらず、相手の戦略との組み合わせでしか決まりません (von Neumann & Morgenstern, 1944)。均衡の概念(互いに相手の戦略への最適反応になっている状態)も、この定義の上に成り立っています (Nash, 1950)。例:囲碁でも、個々の手筋(戦術)と、地と厚みのバランスや全局的な方向性を判断する「大局観」(戦略)は古くから区別されてきました。
したがって、分野は違っても、戦略の定義は以下の要素を含むものであると捉えられます。
目的と手段をつなぐ論理であること
資源が有限であるため、選択と放棄(何をやらないか)を伴うこと
自分の行動に反応してくる知性ある他者(敵・競合・対局相手)との相互作用を前提とすること
不確実性の下での判断であり、実行しながら修正されるものであること
一言で定義をまとめると、”何を捨て何に賭けるかを定めた検証可能な仮説”となります。
2.2 戦略ではないもの
また、戦略は近い概念とも混同されやすいものがあります。
戦術との違い:規模ではなく階層 戦術は「目の前の戦い方」、戦略は「その戦いを目的に結びつける論理」であり、両者の違いは大小ではなく目的-手段の階層です (Clausewitz, 1832)。例:囲碁で目の前の石を取る手筋は戦術、その戦いに勝つことが全局の勝ちにつながるかの判断は戦略です。個々の商談の進め方は戦術、どの顧客セグメントとの商談に営業リソースを集中するかは戦略です。
ミッション・ビジョンとの違い:旅の理由、目的地、経路 ミッション(旅の理由)は「なぜ我々は存在するのか」、ビジョン(目的地)は「その結果どこに行きたいのか」、戦略(経路)は「目的地までどう行くのか、そしてどの道を捨てるのか」です (Collins & Porras, 1996; Rumelt, 2011)。ミッション(旅の理由)とビジョン(目的地)は方向を与えますが、それだけでは資源をどこに集中し何を捨てるかは決まりません。同じ目的地に至る経路は複数あり、そのうち一つに賭けるのが戦略(経路)だからです。例:「食を通じて健康に貢献する」はミッション(旅の理由)、「アジアNo.1の食品企業になる」はビジョン(目的地)であり、どちらも戦略ではありません。「そのために、まず高齢者向け宅配食に集中し、外食事業はやらない」と進む道と捨てる道を定めて、初めて戦略(経路)になります。逆に言えば、ミッションやビジョンを掲げた文書に経路の選択がなければ、それは戦略が未策定だというサインです。
計画との違い:計画は「手順書」、戦略は「勝てる理由」 計画とは、誰が・いつ・何をするかを時系列に並べた実行の手順書です。一方、戦略とは「なぜその行動で勝てるのか」という賭けの論理であり、両者は役割が異なります。理想的には、まず戦略(勝てる理由)があり、それを手順に落としたものが計画です。つまり計画は戦略の表現形式の一つにすぎません。実現された戦略の多くは、事前の計画文書ではなく、日々の意思決定が一貫した判断基準で積み重なった結果として、事後的にパターンとして現れることが示されています(創発戦略)(Mintzberg & Waters, 1985)。例:計画文書はなくても、「迷ったら常に既存顧客の深耕を優先する」という一貫した判断が続いていれば、その会社には実質的な戦略があります。
目標・KPIとの違い:目標は戦略のアウトプット 目標は「戦略がうまくいったかを測る指標」であり、戦略そのものではありません (Rumelt, 2011)。例:「解約率を5%下げる」はKPIであり、「なぜ・どうやって下げられるのか」の仮説が戦略です。
ビジネスモデルとの違い:仕組みの設計図と、勝つための賭け ビジネスモデルとは、「誰に、どんな価値を、どうやって届け、どこで課金して回収するか」という価値創造と価値獲得の仕組みの設計図です (Zott & Amit, 2010)。戦略との決定的な違いは、ビジネスモデルには競争の次元が含まれないことです。仕組みが論理的に回るかどうかは競合がいなくても検証できますが、戦略は競合の存在を前提に「どう勝つか」を扱います (Magretta, 2002)。両者の関係は、戦略=どのビジネスモデルで、どの土俵で戦うかの選択、ビジネスモデル=その選択の結果として動く機械、と整理されています (Casadesus-Masanell & Ricart, 2010)。例:フリーミアムというビジネスモデルは何百社も使っていますが、各社の戦略(どのセグメントで、どの競合を避け、何を捨てるか)は全く異なります。優れたビジネスモデルは模倣されうるため、それ単体では優位は続かず、模倣を防ぐ選択(戦略)と組み合わせて初めて機能します。
3. 戦略に関する最新研究
古典的な定義は2010年代までにほぼ確立していましたが、2020年代の経営学では、戦略の定義をさらに更新する3つの潮流が明確になっています。
3.1 実践としての戦略
これは、戦略策定が経営企画室の独占物ではなくなった環境変化によって注目されました。ツールやデータを通じて現場や外部が戦略づくりに参加するようになり、「戦略は誰が、どこで行っているのか」という問いが現実味を持ちました。
戦略は「企業が持つもの」ではなく「人々が日々行うこと」 この潮流は、戦略を計画文書ではなく、会議・資料作成・現場の優先順位づけといった日々の活動(strategizing)の中に存在するものとして研究します。例:「戦略を策定したのに実行されない」という悩みは、この見方では問いが逆で、日々実行されているものこそがその会社の実際の戦略です。
「何が活動を戦略的にするのか」の再定義 2024年には、この根本的な問いを再検討する論文が発表され、(1) 組織にとって重要な結果をもたらす活動、(2) 組織内で「戦略的」とラベル付けされる活動、(3) 経営層など戦略家が行う活動、(4) 重要な反復パターンを形成する活動、という4つの見方が整理されました (Seidl, Ma & Splitter, 2024)。例:経営会議で「戦略案件」と呼ばれていなくても、現場の営業が毎日行っている顧客の選別が、実質的に会社の戦略を決めていることがあります。
実務での使い方:文書ではなく実践を変える この潮流に立つと、戦略を変えたいときに変えるべきは文書ではなく、日々の実践(会議のアジェンダ、資源配分の判断基準、現場の優先順位づけ)です。例:「重点顧客に集中する」という戦略を掲げても、営業会議で全顧客の進捗を同じ時間ずつ確認し続けているなら、実際の戦略は変わっていません。会議で扱う顧客を絞ることが、戦略の変更そのものです。
3.2 仮説や理論としての戦略
これは、環境の変化が戦略策定のサイクルより速くなった環境変化によって注目されました。「一度定めた良いポジション」という静的な戦略観が、競争優位の持続期間の短縮によって現実に合わなくなりました (McGrath, 2013)。例:2020年のコロナ禍は、生き残るのは良いポジションを持つ企業ではなく、素早く資源を組み替えられる企業であることを世界規模で示しました。
優れた経営者は科学者のように「自社独自の理論」を持つ 経営者の持つ独自の理論こそが、他社には見えない機会や資源の価値を見えるようにする、という見方です (Felin & Zenger, 2017)。例:「音楽を1曲ずつ売れば、CDを買わない層が音楽に金を払う」というAppleの理論は、当時の他社には見えていなかった機会を見えるようにしました。
「戦略=仮説」は実験で効果が確認されている イタリアのスタートアップ116社を対象にしたランダム化比較試験(RCT)では、仮説を立てて検証する「科学的アプローチ」の訓練を受けた起業家は、受けていない起業家より業績が高く、見込みのない事業からの撤退判断も的確でした (Camuffo et al., 2020)。この結果は754社を対象とした大規模な追試でも再現されています (Camuffo et al., 2024)。例:「売上2倍」は仮説ではありませんが、「この顧客層は、この理由で、この価値に対価を払うはずだ」は検証可能な仮説であり、戦略の名に値します。
実務での使い方:戦略を仮説文の形式で書く 自社の戦略を「(顧客)は(理由)により(価値)に対価を払うはずだ。それを確かめるために(検証方法)を行う」という形式で書き直してみることが、この潮流の最も簡単な応用です。仮説文に書き直せない戦略は、検証も修正もできない戦略だと分かります。例:「中堅製造業の経理部門は、月次決算の属人化に困っており、月5万円までなら自動化ツールに払うはずだ。まず10社に有償PoCを提案して確かめる」。
3.3 能力としての戦略
これは、実験のコストが下がり、「検証」が実行可能な方法論になった環境変化によって注目されました。デジタル環境で実験(A/Bテスト、MVP検証)のコストが劇的に下がり、経営学にもRCT(ランダム化比較試験)などの因果推論の手法が持ち込まれました。これにより、「戦略を仮説として検証する」ことが、思想ではなく効果を測定できる方法論になりました。
良いポジションより「変化し続ける能力」 環境が急速に変化する状況では、ある時点の良いポジションはすぐに陳腐化します。そこで、環境変化を感知し(sensing)、機会を捕捉し(seizing)、組織の資源を組み替え続ける(transforming)能力こそが持続的な競争優位の源泉である、と論じられています (Teece, Pisano & Shuen, 1997; Teece, 2007)。例:富士フイルムは、写真フィルム市場の消滅を感知し、フィルムで培った技術を化粧品や医薬品へ組み替えて生き残りました。
実証研究の蓄積と実務への浸透 近年は約300本の研究の体系的レビューが行われるなど実証の蓄積が進み (Schilke, Hu & Helfat, 2018)、日本でも2020年版ものづくり白書が不確実性の時代への対応原理としてこの概念を採用しました (経済産業省ほか, 2020)。
実務での使い方:3つの能力を点検する 自社について、(1) 環境変化を感知する仕組みがあるか(顧客・技術・競合の変化が定期的に経営に上がるか)、(2) 感知した機会に資源を素早く投じられるか(意思決定と予算の機動性)、(3) 既存の資源や組織を組み替えられるか(撤退・再配置ができるか)を点検します (Teece, 2007)。例:変化のレポートは上がってくるのに、予算が年1回の策定で固定されている会社は、sensingはあってもseizingがない状態です。
4. 戦略の設計方法
ここまで扱ってきたのは「戦略とは何か」という定義であり、「戦略の中身をどう設計するか」はここから述べます。戦略の中身の設計をどのように進めれば良いのかという問いに対しては、戦略ダイヤモンド (Hambrick & Fredrickson, 2001) の5要素が学術研究において定番の回答となっています。Hambrickは米国経営学会の会長も務めた経営学で最も著名な研究者の一人であり、戦略ダイヤモンドは米国経営学会の学会誌で発表され、MBA教育の標準教材となっている枠組みです。
戦略は5つの要素への回答の集合である 戦略ダイヤモンドの枠組みでは、(1) Arenas(どこで戦うか)、(2) Vehicles(どの手段で到達するか)、(3) Differentiators(何で勝つか)、(4) Staging(どの順序とスピードで)、(5) Economic Logic(どう利益を生むか)の5つすべてに答えて、初めて戦略を設計したことになるとされます (Hambrick & Fredrickson, 2001)。
戦略は要素の「一貫性」である 5要素は個別に最適化するものではなく、互いに支え合う一つのシステムとして設計するものです。活動同士が噛み合っている(フィットしている)ほど、競合は一部を真似ても全体を再現できません (Porter, 1996)。例:サウスウエスト航空の「短距離直行便のみ・単一機種・機内サービス最小化・15分での折り返し」は、一つひとつは模倣可能でも、全体の噛み合わせが低コスト構造を生むため、大手は自社の既存システムを壊さずには模倣できませんでした。
実務での使い方:まず1ページで5要素を書き出す 戦略ダイヤモンドの最も簡単な使い方は、自社(または自事業)の戦略を5要素それぞれ1〜2行、合計1ページで書き出してみることです。原典でも、5つの問いに明快に答えられない戦略は戦略ではないとされます (Hambrick & Fredrickson, 2001)。
以下、5つの要素を順に整理します。
4.1 Arenas:どこで戦うか
どの市場・セグメント・地域・技術領域で戦うかの選択について、研究では以下の視点が示されています。
市場の構造的な魅力度で選ぶ 業界の利益率は、既存競合の敵対関係、新規参入の脅威、代替品の脅威、買い手の交渉力、売り手の交渉力という5つの力(Five Forces)で構造的に決まります。個々のプレイヤーの努力ではなく構造が利益を決めるため、まず「構造的に儲かる場所か」を見ます (Porter, 1980)。例:参入障壁が低く買い手が強い業界(多くの受託開発など)は、どれほど頑張っても利益率の上限が低くなります。
自社の資源が活きる場所で選ぶ 同じ市場でも、価値があり・希少で・模倣困難で・組織的に活用できる(VRIO)資源を持つ企業とそうでない企業では、勝ちやすさがまったく異なります。市場の魅力度だけでなく、自社の資源との適合で選ぶべきだとする見方です (Barney, 1991)。例:物流網という資源を持つ企業にとって、EC参入は「魅力的な市場」である以前に「資源が活きる市場」です。
競争のない市場を創り出す 既存市場での競争(レッド・オーシャン)ではなく、業界の常識となっている価値要素を「減らす・取り除く・増やす・付け加える」ことで、競争自体が存在しない市場(ブルー・オーシャン)を創造できるとする研究もあります (Kim & Mauborgne, 2005)。例:シルク・ドゥ・ソレイユは、サーカスから動物や花形スターを取り除き、演劇の要素を加えることで、サーカスとも演劇とも競合しない市場を創りました。
「戦わない市場」も明文化する Arenasの設計は、参入する市場の列挙だけでは完成しません。前半で述べた通り、戦略の本質は選択と放棄であるため、「候補に挙がったが戦わないと決めた市場」とその理由を明文化して初めて、Arenasを設計したことになります (Porter, 1996; Hambrick & Fredrickson, 2001)。例:「大企業向けは、意思決定が長く自社の速度の優位が消えるため、当面参入しない」という一行が、営業現場の迷いを消します。
市場は「自社の理論」によって見える 前半で紹介したtheory-based viewに立てば、どの市場が有望かは客観的に決まっているのではなく、自社独自の理論(仮説)によって初めて「見える」ものです (Felin & Zenger, 2017)。例:「音楽は1曲単位で売れる」という理論を持ったAppleには、他社に見えていなかった市場が見えていました。Arenasの選択とは、分析の結論である以上に、仮説の表明です。
Arenasは市場だけでなく多次元で指定する 戦略ダイヤモンドの原典では、Arenasは製品カテゴリ・顧客セグメント・地域・技術・バリューチェーンの段階という複数の次元で具体的に指定すべきだとされます (Hambrick & Fredrickson, 2001)。例:「ヘルスケア市場に参入」ではなく、「日本の中規模病院向けに(顧客・地域)、予約管理のSaaSを(製品・技術)、開発と販売は自社で、導入支援はパートナー経由で(バリューチェーン段階)」という粒度まで指定して、初めて次のStagingとVehiclesが設計できます。
実務での使い方:魅力度×適合度×理論の3点で評価する 候補となる土俵を、(1) 構造的に儲かるか(Five Forces)、(2) 自社の資源が活きるか(VRIO)、(3) 自社にしか見えていない仮説があるか(theory-based view)の3点で採点します。3つ目が最も重要で、(1)(2)だけで選んだ市場は、同じ分析をした競合と同じ結論に至るため、混雑します。例:「誰もが魅力的だと分析できる市場」はその時点でレッド・オーシャンです。
4.2 Staging:どの山から、どの順序で登るか
同じ市場(山)を選んでも、どこから登るかで成否が分かれます。研究と実務の知見は以下のように整理できます。
一点突破から隣接拡大へ(橋頭堡の原理) 軍事作戦では、全戦線で同時に戦わず、一点(橋頭堡)を確保してから隣接地域へ拡大します。ノルマンディー上陸作戦が典型で、確保した一点が補給と次の攻略の足場になります。ビジネスでも同じ構造が「ボウリングピン戦略」として定式化されており、最初の1ピン(ニッチセグメント)を倒すと、そこで得た実績・顧客・製品改良が隣のピンを倒しやすくする、と説明されます (Moore, 1991)。例:Facebookはハーバード大学という一点から始め、大学という隣接セグメントを順に倒してから一般公開に進みました。
初期市場と主流市場の間には断絶がある 新技術の普及では、初期採用者と主流顧客の間に「キャズム(深い溝)」があり、初期市場での成功パターンは主流市場では通用しません。キャズムを越えるには、主流側の特定ニッチを一つ選んで独占し、そこを橋頭堡にすべきだとされます (Moore, 1991)。例:全方位のマーケティングでキャズムに落ちるスタートアップは多く、「まずどの1セグメントで圧倒的なシェアを取るか」の選択がStagingの最初の設計項目になります。
ローエンド・無消費から登る(破壊的イノベーション) 既存大手と正面から戦わず、大手が捨てているローエンド顧客や、そもそも製品を使っていない層(無消費)から参入し、技術向上とともに上位セグメントへ登る経路が有効であることが示されています。大手はローエンドを防衛する動機が乏しいため、反撃を受けにくいのがこの経路の利点です (Christensen, 1997)。例:トヨタは小型低価格車から米国市場に参入し、数十年かけてレクサスまで登りました。
隣接拡大の成功率は「コアからの距離」で決まる 成長を求めて隣接領域へ拡大した企業の実証研究では、拡大の成功率は約4分の1と低く、顧客・チャネル・コスト構造・組織能力をコア事業とどれだけ共有しているか(隣接性の近さ)が成功率を左右することが示されています。また、成功企業は一度に踏み出す隣接ステップを1つに抑え、拡大の「反復可能な型」を持っています (Zook, 2004)。例:Amazonは書籍で構築した物流・決済・レコメンドの型を、CDやDVDという最も近い隣接カテゴリから順に適用していきました。AWSでさえ、自社ECを支える計算基盤という内部資産の外販であり、飛び地ではありません。
成長経路は4方向に整理できる 古典的には、既存/新規の製品×市場のマトリクスで、市場浸透・新製品開発・新市場開拓・多角化という4つの成長ベクトルに整理され、コアから遠い多角化ほどリスクが高いとされます (Ansoff, 1957)。隣接拡大の実証研究は、この古典的な直観をデータで裏付けたものと言えます。
囲碁の布石も同じ原理である 囲碁では、盤面の広さに対して石は一手ずつしか打てないため、「どこから打つか」の効率が勝敗を分けます。布石の原則は隅→辺→中央の順であり、これは2辺が確保済みの隅が最も少ない石数で領域を確保でき(効率)、確保した隅と厚みが隣接する辺の戦いを有利にする(足場)からです。「最も効率よく確保できる場所から着手し、確保した資産を足場に隣接領域へ」という構造は、橋頭堡(少数の先発部隊が命がけで対岸や海岸に小さな陣地を築き、そこを足場にして後から武器や大軍を安全に送り込むためになくてはならない拠点)・ボウリングピン戦略(マーケティングや事業戦略で、最初の一点を集中的に攻めて成功させ、その勢いで周囲へ波及させる手法)とまったく同型です。
最初のセグメントは「小さく、痛みが強く、口コミがつながる」単位で選ぶ 橋頭堡となる最初のセグメントの選定基準は、市場の大きさではありません。(1) 自社の資源でも圧倒的シェア(独占)を取れるほど小さいこと、(2) 課題の痛みが強く、不完全な製品でも買ってもらえること、(3) セグメント内で顧客同士の口コミ・参照がつながっており、1社の成功事例が次の受注を生むこと、が条件とされます (Moore, 1991)。例:PayPalは「オンライン決済を使う全員」ではなく、eBayのパワーセラー(オークションで大量に販売する常連出品者)から始めました。当時のeBayの支払いは小切手の郵送が主流で入金までに1週間以上かかり、取引回数の多いパワーセラーほどこの遅さが死活問題でした(=痛みの強さ)。彼らが出品ページに「PayPal使えます」と表示すると買い手がPayPalに登録し、その買い手が他のセラーにも導入を促すため、集団の内部で採用が自走しました(=口コミの連鎖)。そして数万人規模の集団だったため、資金の乏しいスタートアップでも独占が可能でした(=小ささ)。PayPalはこの橋頭堡からeBay全体の決済を制し、最終的にeBay自身に買収されるまでになりました。
順序とともに「スピード」も設計項目である Stagingは順序だけでなく、拡大のペース配分(いつ一気に投資するか)を含みます。ネットワーク効果が強い市場では先行者が総取りするため速度優先が正当化されますが、そうでない市場では、仮説検証を終える前の急拡大は失敗の拡大再生産になります (Hambrick & Fredrickson, 2001)。例:Teslaは高価格少量のロードスターで技術と資金とブランドを確保し、モデルS/Xで中間層、モデル3で量産市場へと、検証を挟みながら段階的に登りました。
次のセグメントへ移るタイミングは「独占」と「型」で判断する 隣接セグメントへ移る条件は、売上の伸びではなく、(1) 現在のセグメントで支配的な地位(口コミが自走する水準のシェア)を確保したこと、(2) そのセグメントで確立した売り方・作り方の型が、隣接セグメントでも再利用できる見込みがあること、の2つです (Moore, 1991; Zook, 2004)。例:シェア10%のまま隣へ移るのは橋頭堡の未完成であり、逆に独占後も同じセグメントに留まり続けるのは成長機会の放棄です。
典型的な失敗パターンは3つ Stagingの失敗は、(1) 飛び地参入(コアと顧客・チャネル・能力を共有しない領域への拡大。成功率が大きく下がることが実証されています (Zook, 2004))、(2) 同時多面展開(橋頭堡を確保する前に複数セグメントへ同時参入し、どこでも独占を作れない)、(3) 時期尚早の拡大(仮説検証前のスケール投資)に大別できます。例:初回受注が複数業界からばらばらに入ると「需要は幅広い」と誤読して同時多面展開に進みがちですが、これは橋頭堡の放棄です。
実務での使い方:登山ルートを仮説文で書く Stagingの設計は、「まず(セグメントA)で(勝利条件:シェアや基準顧客数)を達成する。そこで得た(資産:実績・データ・製品改良・チャネル)により、(隣接セグメントB)の攻略コストが下がるはずだ」という仮説文の連鎖として書けます。書けない場合、それは登山ルートではなく単なる市場リストです。前半で述べた「戦略=検証可能な仮説」は、Stagingにおいて最も具体的な形をとります。
4.3 Differentiators:何で勝つか
選んだ土俵で競合にどう勝つかについては、以下の設計原則があります。
優位の源泉は「便益×模倣障壁」で設計する コスト優位、ブランド、ネットワーク効果、スイッチングコストなどの優位の源泉は、顧客への便益と模倣への障壁の両方を満たして初めて機能します。便益だけなら単なる強みであり、優れた手法はすぐに業界標準になって差がなくなります (Porter, 1980; Barney, 1991; Helmer, 2016)。
代表的な類型は5系統 優位の源泉は、(1) コスト構造(規模の経済・習熟。例:Amazonの物流網とAWSの規模は、同じ価格と速度を後発が再現できません)、(2) 顧客のロックイン(スイッチングコスト・データ蓄積。例:基幹システムは移行コストの高さ自体が防壁になります)、(3) ネットワーク・プラットフォーム(利用者が増えるほど価値が増す構造)、(4) 無形資産(ブランド・特許・規制認可)、(5) 市場構造・戦略(強者が模倣すると自社の既存事業を壊すため追随できないカウンターポジショニングなど)に大別されます (Porter, 1980; Helmer, 2016)。
実証研究:無形資産・ネットワーク型ほどリターンが持続する 1963〜2023年の25,000社超・60年分のデータを分析した研究では、無形資産・ネットワーク型のMoatを持つ産業は、少ない追加投資で高い投下資本利益率(ROIC)を長期に維持できることが示されています。また、複数のMoatを重ねた企業は、単一のMoatに頼る企業より優位が持続します (Mauboussin & Callahan, 2024)。例:NVIDIAは「エコシステム+独自技術+規模」、Amazonは「規模+会員のロックイン+チャネル」という複合です。
Moatは初日には存在しない 創業時点でMoatがないのは普通であり、Moatは初日に証明するものではなく、顧客の問題を解き続けた年月の末に形成されるものです (Helmer, 2016)。したがって、変化の速い市場でMoatを初日に求めすぎず、複数のMoatを段階的に重ねていく時間軸の設計が本質になります。
生成AI時代:モデル性能はMoatになりにくい AI事業では、モデルの性能そのものはコモディティ化が速くMoatになりにくいため、優位の中心は、業界固有データの学習ループ、顧客ワークフローへの深い組み込み、計算資源・流通網といった補完資産へ移っています。例:基盤モデルが更新されても、業界固有の業務手順や例外処理を製品に写し取った価値は模倣されません。
4.4 Vehicles:どの手段で到達するか
選んだ市場に、自社開発・買収・提携のどの手段で到達するかについて、研究では以下のように整理されています。
Build / Borrow / Buy を資源ギャップで選ぶ 必要な資源と自社資源のギャップが小さければ自社開発(Build)、資源が外部から切り出して調達できるなら提携・ライセンス(Borrow)、資源が組織に深く埋め込まれていて丸ごとしか手に入らないなら買収(Buy)、という選択枠組みが示されています。誤った手段の選択(特に、提携で足りる場面での安易な買収)が成長の失敗の主因の一つとされます (Capron & Mitchell, 2012)。例:GoogleはモバイルOSという深く埋め込まれた能力を、自社開発ではなくAndroid買収(Buy)で獲得し、その後の普及は端末メーカーとの提携網(Borrow)で実現しました。
買収は「デフォルトの手段」にしてはならない M&Aの実証研究のメタ分析では、買収企業の業績は買収後に平均して改善せず、むしろわずかに悪化する傾向が繰り返し確認されています (King et al., 2004)。買収が正当化されるのは、必要な資源が組織に深く埋め込まれ、他の手段では入手できない場合に限られ、スピードだけを理由とした買収は統合コストで価値を失いやすいとされます。例:提携やライセンスで検証できる段階の技術を、競合に取られる恐怖から高値で買収するのは、典型的な失敗パターンです。
単独で戦うか、エコシステムで戦うか 近年の研究では、企業単体ではなく、補完者を含むエコシステム(プラットフォームと補完製品群)を設計・統率することが到達手段として重要になっています。自社がプラットフォームの中核(オーケストレーター)になるのか、有力なエコシステムの補完者になるのかは、Vehiclesの現代的な選択肢です (Jacobides, Cennamo & Gawer, 2018)。例:AppleはApp Storeで開発者という補完者を組織し、自社開発では到達できない機能の網羅性を実現しました。
手段の選択はStagingと連動する 検証段階(仮説が未確認)では撤退可能性の高い提携やライセンスを使い、仮説が確認されてから買収や自社投資で深くコミットする、という順序設計が合理的です。前半で述べた「戦略=検証可能な仮説」の見方は、Vehiclesの選択にも時間軸を与えます。例:少額出資(CVC)→共同開発→買収という段階的な関与は、不確実性の高い新技術領域で「学習しながらコミットを深める」Vehiclesの設計です。
4.5 Economic Logic:どう利益を生むか
最後に、以上の設計がどのような論理で利益に変わるのかを設計します。
ビジネスモデルは「活動システム」として設計する 収益の生まれ方は、単価や原価の積み上げではなく、誰がどの活動を担い、どこで課金するかという活動システム全体の設計(コンテンツ・構造・ガバナンス)で決まります。設計の価値の源泉として、新規性(Novelty)、囲い込み(Lock-in)、補完性(Complementarities)、効率性(Efficiency)の4つが示されています (Zott & Amit, 2010)。例:コストコは商品マージンではなく会員費で利益を出す設計(課金点の移動)であり、同じ小売でもスーパーとは異なる経済論理で動いています。
規模で利益を出すか、プレミアムで出すか 戦略ダイヤモンドの原典では、経済論理の典型として「規模の経済による低コスト」と「独自価値によるプレミアム価格」が挙げられ、どちらの論理で利益を生むのかを明示することが求められます (Hambrick & Fredrickson, 2001)。例:同じ航空業界でも、LCCは規模と回転率の論理、プレミアムキャリアは単価の論理で利益を出しており、中途半端な混合は両方の論理を壊します。
課金点は製品の外に置ける 利益を生む場所は、製品そのものへの課金に限りません。本体を安くして消耗品で回収する、製品を無償にして一部ユーザーの課金で回収する(フリーミアム)、所有ではなく利用に課金する(サブスクリプション)など、課金点の設計自体が競争優位になり得ます (Zott & Amit, 2010)。例:フリーミアムは、無償ユーザーがネットワーク効果や口コミ(=StagingとDifferentiatorsへの貢献)を担う設計であり、単なる値引きではありません。
価格は「価値」から設計する 価格設定の研究・実務では、原価の積み上げ(コストプラス)や競合価格への追随ではなく、顧客が得る経済価値を基準に価格を設計すべきだとされます (Nagle & Holden, 2002)。例:業務時間を月100時間削減するツールの価格の基準は、開発コストではなく、顧客にとっての100時間分の価値です。前半で述べた「顧客は、この理由で、この価値に対価を払うはずだ」という戦略仮説は、価格設定の仮説でもあります。
経済論理はDifferentiators・Arenasと整合していなければならない プレミアム価格の論理は、それを支えるDifferentiators(ブランド、独自技術)と、価格感度の低いArenas(セグメント)を前提とします。例:低価格セグメント(Arenas)を選びながらプレミアム課金(Economic Logic)を設計する、という不整合は珍しくありません。
4.6 5要素の一貫性テスト
戦略ダイヤモンドの原典が強調するのは、5要素それぞれの出来ではなく、全体の一貫性です (Hambrick & Fredrickson, 2001)。設計した戦略は、以下の問いで点検できます。
Arenas→Differentiators:選んだ土俵は、自社の勝ち筋(Moat)が築ける場所か。例:ネットワーク効果を狙うのに、顧客同士のつながりがない市場を選んでいないか。
Arenas→Staging:最初に登るセグメントは、隣接セグメントの攻略コストを下げる足場になるか(飛び地になっていないか)。例:橋頭堡で得る実績・データ・チャネルのうち、次のセグメントで再利用できるものを具体的に挙げられるか。
Staging→Vehicles:仮説の検証段階に見合った手段か(未検証の仮説に買収で深くコミットしていないか)。例:検証前の領域は提携、検証済みの領域は自社投資、と手段が段階に対応しているか。
Differentiators→Economic Logic:利益の論理(規模かプレミアムか)は、優位の源泉と噛み合っているか。例:差別化を掲げながら、収益計画が規模の論理(薄利多売)で作られていないか。
全体→資源:5要素の全体は、自社の資源と資金で実行可能か。また、環境変化に応じて組み替えられるか(ダイナミック・ケイパビリティ)。例:5要素すべてを賄うには資金が足りない場合、削るべきはArenasの広さであり、各要素の質ではありません。
一貫した設計の例として、IKEAを5要素で記述すると次のようになります (Hambrick & Fredrickson, 2001)。
Arenas:スタイリッシュだが高価な家具に手が届かない、若く価格感度の高い顧客層。
Staging:北欧で型を完成させてから、欧州→北米→アジアへと、同じ型を反復して順次展開。
Differentiators:デザイン性と低価格の両立、倉庫一体型店舗での即日持ち帰りという独自の顧客体験。
Vehicles:買収や提携ではなく、標準化した自社店舗の直営展開(オーガニックな拡大)。
Economic Logic:フラットパック(顧客による持ち帰り・組み立て)と世界規模の調達による、規模を前提とした低コスト構造。
5. 戦略の手法
これまで整理してきた戦略の5つの要素はゼロから考える必要はありません。将棋に定跡が、囲碁に定石が、軍事にドクトリンがあるように、戦略の5つの決定にも、分野を問わず「頻出する状況に対する、先人が検証済みの解」、つまり型が存在します。そして興味深いことに、どの型を選ぶべきかは、自社が強者か弱者かで大きく変わることが知られています。
5.1 前提:強者と弱者で型は変わる
自社がその戦場で強者(シェア1位)なのか弱者(それ以外)なのかで、選ぶべき型が正反対になるということです。この非対称性を最も明快に示したのが、ランチェスターの法則です。
線形の法則:一対一の戦いでは、数の差は線形にしか効かない 元は軍事の数理モデルで、剣で斬り合うような一対一の局地戦では、戦闘の帰趨は「武器の性能 × 兵力数」で決まり、兵力差は線形にしか効きません (Lanchester, 1916)。例:兵力3対5なら、損耗の差も3対5の比率にとどまります。
二乗の法則:広域の確率戦では、数の差は二乗で効く 一方、銃火器で互いに撃ち合うような広域の確率戦では、戦闘力は「武器の性能 × 兵力数の二乗」で決まります (Lanchester, 1916)。兵力3対5なら実質的な戦力差は9対25となり、多数側が圧倒的に有利です。ここから導かれる原則は明快で、強者は戦いを広域の確率戦(二乗が効く戦い)に持ち込むべきであり、弱者は戦いを局地の一対一(線形しか効かない戦い)に持ち込むべきだ、ということです。
マーケティングへの翻訳:リーダーの型と挑戦者の型 軍事の戦略パターン(攻撃・防御・側面攻撃・ゲリラ戦)をマーケティングに翻訳する「マーケティング戦争」論は1980年代に展開され、市場リーダーの型(広域の防御と物量)と挑戦者の型(局地への集中、側面攻撃、ゲリラ戦)が整理されました (Kotler & Singh, 1981; Ries & Trout, 1986)。ランチェスターの2つの法則は、この非対称性に数理的な根拠を与えます。強者は数の差が二乗で効く広域戦を選ぶべきであり、弱者は数の差が線形にしか効かない局地戦を選ぶべきだ、ということです。
強者・弱者は会社単位ではなく、戦場単位で判定する 重要な注意点として、リーダーか挑戦者かは会社の規模ではなく、定義した戦場(Arenas)ごとの地位で決まります。例:大企業でも、新規参入する市場では挑戦者であり、弱者の型(局地戦・一点集中)から始めるのが定跡です。逆に小さな会社でも、特定の地域や用途で1位なら、その戦場では強者の型(模倣による無効化)が使えます。
学術的な位置づけには注意が必要 注意として、ランチェスターの原典は軍事オペレーションズ・リサーチで検証が続く数理モデルである一方、それをビジネス競争に当てはめる議論は、ポーターやティースの理論ほどの実証蓄積を持つものではなく、構造的なアナロジーに近いものです。本稿では、「強者と弱者で最適な型が逆になる」という洞察を借りる、という位置づけで使います。
この「強者の型・弱者の型」という軸を持って、以下、5つの決定それぞれの定跡を見ていきます。
5.2 Arenas(戦場の選び方)の型
弱者の型
局地戦(市場を細分化し、勝てる区画だけで戦う) 弱者の最重要の型は、市場全体では戦わず、地域・顧客層・用途で市場を細分化し、自社の全戦力を投じれば1位になれる区画を選ぶことです (Lanchester, 1916の線形の法則)。「小さく・痛みが強く・口コミがつながるセグメント」という橋頭堡セグメントの選定基準 (Moore, 1991) は、この型の現代版です。例:全国チェーンと戦う地域スーパーが、特定商圏の鮮度だけに全資源を集中するのはこの型です。
戦わずして勝つ(空白の戦場を選ぶ) 競合との戦闘自体を避けるのが最善だとする、最古の戦略原則です (孫子, 紀元前5世紀頃)。ビジネスでは、業界の価値要素を組み替えて競争のない市場を創るブルー・オーシャン戦略 (Kim & Mauborgne, 2005) がこの系譜に当たります。例:シルク・ドゥ・ソレイユは、サーカスとも演劇とも正面から戦わない市場を創りました。
相手の準備が厚い局面を避ける チェスでは、相手の研究が深いオープニングに付き合わず、自分の研究範囲に局面を誘導するのが定跡です。囲碁にも「厚みに近寄るな」という格言があり、相手の力が最大化される場所で戦わないことが型とされます。ビジネスでの対応物は、強者の規模・ブランドが効く土俵(価格勝負、全国流通)を避け、それらが効かない土俵(速度、専門性、顧客への近さ)を選ぶことです。
強者の型
広域戦(戦場を広げて物量を効かせる) 強者の型はその裏返しで、戦線を広げ、全製品・全チャネル・全地域の総合力で戦うことです。戦いが広域の確率戦になるほど、二乗の法則により物量の差が二乗で効くからです (Lanchester, 1916)。例:業界1位の企業が、製品ラインを網羅的に揃えてどの比較でも選択肢に入る状態を作るのはこの型です。
市場全体を育てる シェア1位の企業には、競合と戦う以外にもう一つの定跡があります。市場そのものを拡大することです。シェアが最大である以上、市場の成長の最大の受益者は自社になるため、カテゴリ自体の認知拡大や用途開発に投資するのが合理的です (Kotler & Singh, 1981)。例:カテゴリを支配する食品ブランドが、競合対策の広告ではなく、レシピ提案(新しい利用場面の開発)に予算を使うのはこの型です。
5.3 Staging(山の登り方)の型
弱者の型
橋頭堡(一点を取り切ってから隣へ) 最初のニッチで圧倒的シェアを確保し、そこで得た資産(実績・データ・製品改良・チャネル)で隣接セグメントを順に攻略する型です。ボウリングピン戦略 (Moore, 1991)、ローエンド・無消費からの参入 (Christensen, 1997)、隣接拡大 (Zook, 2004) はすべてこの一系統であり、ランチェスターの一点集中と同じ構造です。弱者のStagingの定跡は、ほぼこの一系統に集約されます。
共通の型
最も安く確保できる場所から打つ 囲碁の布石の定跡(隅→辺→中央)は、最も少ない石数で領域を確保できる場所から着手し、確保した厚みを次の戦いの足場にする、という効率の型です。「登る順序の定跡は、分野を問わず『効率の高い順+足場になる順』で決まる」という原理は、橋頭堡の型とまったく同型です。
「守りを固めてから攻める」か「固めずに速攻」か チェスでは、通常はキャスリング(王の安全確保)を済ませてから攻撃を始めますが、一瞬の主導権を取るために王の安全を後回しにして攻める選択もあります。どちらを選ぶかは、相手の攻めの速さで決まります。ビジネスに翻訳すると、Moat(守り)の構築を先行させるか、市場獲得(攻め)の速度を優先するかという順序の選択です。競合の参入が遅い市場では、収益基盤や参入障壁を固めてから拡大するのが合理的で、競合の参入が速い市場では、先にシェアを取りMoatは後から築くのが合理的です。例:ネットワーク効果が働く市場での速攻優先は、「王の安全より速度」という選択に対応します。
先行者の条件、後発者の条件 先行者が有利になるのは、技術の先行蓄積・希少資源の先取り・顧客のスイッチングコストが働く場合であり、逆に市場や技術の不確実性が高い場合は、先行者の投資にただ乗りできる後発者が有利になることが示されています (Lieberman & Montgomery, 1988)。さらに、急進的な新市場では、市場を創造した先行者ではなく、市場が立ち上がった後に規模化を担った「二番手の統合者」が最終的な勝者になる例が多いことも実証されています (Markides & Geroski, 2005)。例:スマートフォン市場を創ったのは先行者たちですが、市場を取ったのは後発のAppleとSamsungでした。先行するか、素早い二番手(ファスト・フォロワー)でいくかは、優劣ではなく条件で選ぶ型です。
相手より速く判断ループを回す 軍事では、観察(Observe)・状況判断(Orient)・意思決定(Decide)・行動(Act)のループを敵より速く回すことで、敵の判断を常に手遅れにするOODAループが型として定式化されています (Osinga, 2007)。ビジネスでの対応物は、意思決定サイクルと仮説検証サイクルの速度自体を武器にすることです。例:年次予算サイクルで動く大企業に対して、週次で仮説検証を回すスタートアップは、規模ではなくテンポで優位を作っています。
拡大のペースは補給線が決める 軍事の古典的な教訓に「攻勢の限界点」があります。攻勢は補給線が伸び切った時点で失速し、そこで反撃を受けると壊滅的な損害になる、というものです。ビジネスでの補給線は、資金・採用・オペレーション・マネジメントの供給力であり、Stagingのペース設計はこの供給力の範囲内に収める必要があります。例:受注が伸びているのに納品品質が崩れ始めたら、それは補給線が伸び切ったサインであり、拡大の一時停止が定跡です。
登れない山からは順序立てて降りる 撤退にも型があります。軍事では、後衛部隊で主力を援護しながら退く撤退戦が、最も難しい作戦の一つとされてきました。ビジネスでの対応物は、撤退基準の事前設定です。参入前に「どの指標がどの水準を下回ったら撤退するか」を決めておくことで、サンクコストによる撤退の遅れを防ぎます。ランダム化比較試験でも、仮説検証型の意思決定の訓練を受けた起業家は、見込みのない事業からの撤退判断が的確になることが示されています (Camuffo et al., 2020)。
5.4 Differentiators(勝ち筋)の型
弱者の型
側面攻撃とゲリラ戦(正面を避けて戦う) 軍事の型をマーケティングに翻訳した研究では、挑戦者の型として、正面攻撃(強者と同じ土俵で総力戦——原則として最大手にしか勧められない)、側面攻撃(強者が手薄な地域・セグメント・価格帯を突く)、ゲリラ戦(小規模な奇襲を反復し、深追いせず撤収する)などが整理されています (Kotler & Singh, 1981)。弱者の定跡は側面攻撃とゲリラ戦であり、正面攻撃は「兵力2倍でなければ仕掛けるな」が軍事以来の経験則です。
カウンターポジショニング(模倣すると強者が自傷する差別化) 模倣による無効化への最強の対抗型が、「強者がそれを模倣すると、自社の既存事業を破壊してしまう」ような事業設計です (Helmer, 2016)。強者は合理的に判断するからこそ追随できません。例:店舗レンタルの延滞料が主要な収益源だったBlockbusterは、Netflixの定額郵送モデルを模倣すると自社の収益源を自ら破壊するため、対応が致命的に遅れました。破壊的イノベーション (Christensen, 1997) が機能する理由も、この構造で説明できます。
強者の型
模倣による無効化 強者の定跡は、弱者の差別化が脅威になる前に、同じ打ち手を物量付きで即座に模倣し、差別化を無効化することです (Kotler & Singh, 1981)。強者が模倣すれば、顧客は「同じ機能なら大手から買う」ため、弱者の優位は消えます。弱者は、この型が来ることを前提に勝ち筋を設計しなければなりません。
陣地防御より先制と機動 防御側(強者)の型としては、既存ポジションに立てこもる陣地防御、脅威になる前に自ら仕掛ける先制防御、攻撃されたら相手の本拠に反撃する反攻などが整理されており、単なる陣地防御は最も脆い型だとされます (Kotler & Singh, 1981)。例:自社の主力事業を自社の新製品で置き換えにいく「自己破壊」(先制防御)は、他社に破壊されるより良い、という定跡です。
共通の型
コスト・差別化・集中 競争優位の基本型は、(1) コストリーダーシップ(同じものをより安く)、(2) 差別化(違うものをより高く)、(3) 集中(特定セグメントでのコストまたは差別化)の3つに整理され、どれかを明確に選ばない「中途半端(stuck in the middle)」が最も低収益になると警告されています (Porter, 1980)。例:規模で劣るのにコスト勝負を仕掛けるのは、型の選択ミスです。
守りへの投資は、攻めの速さに合わせる チェスプレイヤーは、相手の攻撃がどれだけ速く来るかに応じて、王の安全確保に費やす手数を調整します。守りすぎれば主導権を失い、守らなすぎれば負けるからです。ビジネスでの対応物は、Moatへの投資の深さを競争の速度に合わせることです。競争の緩やかな市場で薄い守り(ブランドだけ、特許だけ)は危険であり、逆に変化の速い市場で重い守り(深い垂直統合など)を築くのは、環境が変わったときに身動きが取れなくなります。
5.5 Vehicles(到達手段)の型
弱者の型
弱者連合(同盟で強者に当たる) 単独では強者に対抗できない弱者たちが連合を組む型で、支配的な勢力に対して弱い勢力が同盟を組んで均衡を図るという、軍事・外交史を貫く勢力均衡のパターンが原型です。ビジネスでの対応物は、業界標準や規格を巡る陣営づくり、オープン化による連合形成です。例:単独でiPhoneに対抗できなかった端末メーカー各社は、GoogleのAndroidというオープンな陣営に加わることで対抗しました。この型の弱点も歴史の通りで、利害が分かれると同盟は崩れます。支配的な勢力は、個別に有利な条件を持ちかけて同盟を切り崩すのが常套手段でした。
強者の型
エコシステムのオーケストレーション 強者の定跡は、自社がプラットフォームの中核となり、補完者を組織して、単独では実現できない価値の総量で戦うことです (Jacobides, Cennamo & Gawer, 2018)。例:AppleのApp Store、Amazonのマーケットプレイスがこの型の代表です。
共通の型
Build / Borrow / Buyの使い分け 必要な資源と自社資源のギャップが小さければ自社開発(Build)、資源を切り出して調達できるなら提携・ライセンス(Borrow)、資源が組織に深く埋め込まれているなら買収(Buy)、という使い分けが定跡です (Capron & Mitchell, 2012)。
段階的コミット 不確実性が高い領域では、少額出資→共同開発→買収と、検証の進度に応じてコミットを深める型が、強者・弱者共通の定跡です。
手段は「後から変えにくい順」に慎重に Vehiclesの型を選ぶ際の実務的な目安は、可逆性です。ライセンスや提携は解消できますが、買収の失敗は売却損と組織の傷として残り、M&Aの実証研究のメタ分析でも、買収企業の業績は平均して改善しないことが示されています (King et al., 2004)。したがって定跡は、「可逆な手段で検証し、不可逆な手段は検証後に使う」です。例:新技術領域でいきなり買収に動く前に、「提携で同じ検証ができないか」を必ず先に問うのが型です。
5.6 Economic Logic(儲け方)の型
課金と回収の設計にも、繰り返し使われてきた定跡があります。
替刃モデル:本体で儲けず、消耗品で回収する 本体(カミソリ、プリンタ、ゲーム機)を安く売って顧客基盤を作り、消耗品や周辺(替刃、インク、ソフト)の継続購入で回収する型です。ロックイン(スイッチングコスト)というMoatと一体で設計されます。
フリーミアム:無償ユーザーは費用ではなく資産 基本機能を無償にして大量のユーザーを集め、一部の有償化で回収する型です。無償ユーザーは、ネットワーク効果・口コミ・データという形でDifferentiatorsとStagingに貢献するため、単なる値引きとは異なります (Zott & Amit, 2010)。
二面市場の補助金:片側を優遇し、反対側から回収する プラットフォームでは、価格に敏感な側(消費者)を無償・低価格で集め、その集客力に対価を払う側(加盟店・広告主)から回収するのが定跡です。どちらの側にどれだけ「補助金」を出すかという価格構造の設計自体が競争優位を左右することが、二面市場の経済学で理論的に示されています (Rochet & Tirole, 2003)。例:クレジットカードが利用者に年会費無料やポイントを配り、加盟店手数料で回収するのはこの型です。
サブスクリプション:所有ではなく利用に課金する 一回の販売を継続課金に変える型で、収益の予測可能性と顧客生涯価値を高める一方、価値を提供し続けなければ解約されるため、実質的には「毎月検証される仮説」として機能します。
ロスリーダー:目玉で集客し、全体で回収する 一部の商品を原価割れで販売して来店・流入を作り、他の商品との合わせ買いで回収する型です。例:スーパーの目玉商品や、Costcoの有名な低価格ロティサリーチキンは、単品の損失を全体の購買で回収する設計です。替刃モデルとの違いは、ロックインではなく「来店機会の創出」で回収する点にあります。
選び方の定跡:儲け方は勝ち筋と土俵に従う どの型を選ぶかは、好みではなく整合性で決まります(戦略ダイヤモンドの一貫性テスト)。例:ロックインのMoatがないのに替刃モデルを設計すると、消耗品だけ他社に乗り換えられて回収できません。
5.7 型の限界
最後に、型のカタログを使う上での最重要の注意点を整理します。
型は「過去の環境で検証された解」にすぎない 競争優位の持続期間が短くなった市場では、かつての定跡(持続的優位を前提とした重い投資)がそのまま悪手になりうることが指摘されています (McGrath, 2013)。型は環境の関数であり、環境が変われば解も変わります。例:規模の経済を前提とした「シェア最優先」の型は、ソフトウェアのように限界費用がほぼゼロで、かつ優位が短命な市場では、必ずしも定跡ではなくなります。
AlphaGoは数百年の定石を覆した この点の最良の実例が囲碁です。AlphaGo以降のAIは、人間が数百年かけて「悪手」と結論づけていた着想(序盤の早い三々入りなど)が、実は有力であることを示し、プロの布石の定石は数年で塗り替わりました (Silver et al., 2017)。定石は「真理」ではなく「その時点での検証済みの仮説」だったのです。
型の誤用は、成立条件の無視から生まれる 弱者の局地戦の型は「局地で1位になれる区画が存在する」ことが成立条件であり、ネットワーク効果で市場全体が一つの土俵になる場合には局地戦自体が成立しにくくなります。同様に、先行者優位の型はスイッチングコストの存在が条件でした (Lieberman & Montgomery, 1988)。型を適用する前に、必ず成立条件を確認する——型を暗記するのではなく、いつ成立するかを理解し、成立しないときには離れる準備をしておくことです。
型は単品ではなく「セット」で噛み合わせる 5つの決定の型は独立ではなく、戦略ダイヤモンドの一貫性テストと同様、セットで整合させて初めて機能します。例:弱者のフルセットは「局地戦(Arenas)×橋頭堡(Staging)×カウンターポジショニング(Differentiators)×弱者連合(Vehicles)×フリーミアムや二面市場(Economic Logic)」のように組めます。逆に、局地戦を選びながら広域向けの物量投資をする、といった型の混在は、どちらの型の成立条件も満たせなくなります。
6. AI時代の戦略
6.1 AIは戦略を考えられるのか
現時点で、戦略策定をAIはどこまで担えるのでしょうか。AIと戦略に関する研究知見は以下のように整理できます。
囲碁:戦略が計算に還元された最初の領域 AlphaGo (Silver et al., 2016) は2016年に世界トップ棋士の李世乭(イ・セドル)九段を破りました。重要なのは勝敗ではなく、人間が「大局観」と呼んできた戦略的直観(盤面全体の形勢や厚みの価値判断)が、深層学習による評価関数として再現可能だと示された点です。さらに翌年のAlphaGo Zeroは、人間の棋譜を一切使わない自己対戦のみの学習で、人間が約3,000年かけて蓄積した定石や戦略観を超えました (Silver et al., 2017)。
ポーカー:相手の手が見えなくても計算できる 囲碁は互いの状態がすべて見える完全情報ゲームですが、その後のAIは、相手の手札が見えず駆け引き(ブラフ)が本質となる不完全情報ゲームのポーカーでも、トッププロを上回りました (Brown & Sandholm, 2018)。「相手の出方が読めない状況での駆け引き」というビジネスに近い構造でも、ルールと勝利条件さえ定義されていれば戦略は計算可能である、と示されたことになります。
人間の戦略もAIによって更新された 興味深いのは、AlphaGo以後、人間の棋士の戦略観そのものが変わったことです。AIが示した新しい着想(従来は悪手とされた早い三々入りなど)を人間が研究し、プロの布石の常識が数年で塗り替わりました。機械の戦略が人間の戦略を終わらせるのではなく、人間の仮説空間を広げる教材になる、という関係は、ビジネスでのAI活用の先行例と見ることができます。
LLMは事業アイデアを投資家並みに評価できる LLM(GPT-4)による事業アイデアの評価は、経験豊富な投資家や起業家に匹敵する水準に達しうることが示されています (Csaszar, Ketkar & Kim, 2024)。
戦略シミュレーションでも人間に匹敵する ビジネススクールで使われる市場競争シミュレーションを用いたベンチマークでは、LLMが人間の参加者に匹敵する成績を収める場面があることが報告されています (Allen & McDonald, 2025)。戦略研究の専門誌Strategy Scienceは2026年に「Can AI Do Strategy?」と題する特集を組んでおり、この問いはすでに戦略研究の中心的な論点です。
実務での使い方:AIには「幅」と「反証」を担わせる 現時点の研究知見に沿えば、戦略立案でのAIの適所は、(1) 選択肢の網羅的な生成(人間が思いつかない打ち手や参入形態を広げる)、(2) 自社戦略への反論の生成(「この仮説はどこで崩れるか」を挙げさせ、確証バイアスを検出する)、(3) 競合視点のシミュレーション(「競合ならどう対抗するか」を演じさせる)です。例:自社の戦略仮説をLLMに渡し、「この仮説が間違っているとしたら、最も可能性の高い理由を5つ挙げよ」と問うのは、Camuffoらの科学的アプローチをAIで加速する使い方です。
では、分析や打ち手の生成が機械化されていく中で、人間に残る戦略の仕事は何でしょうか。第3章の三潮流と突き合わせると、以下の3点に整理できます。
問題設定と勝利条件の定義 囲碁のAIが強いのは勝利条件が定義済みだからです。ビジネスでは「どのゲームを、何を勝ちとしてプレイするか」の定義自体が戦略の一部です(=仮説としての戦略の領分)。例:「シェアで勝つのか、利益率で勝つのか、それとも別の市場を定義し直すのか」はAIに入力する前に人間が決めるべき問いであり、この設定を変えると最適な打ち手はすべて変わります。
コミットメント 戦略には資源を投じて退路を断つ判断が伴い、その結果への責任は組織の中の人間にしか引き受けられません。例:AIが「この市場への参入が最も有望」と評価しても、数十億円の投資を実行し、失敗した場合の説明責任を負うのは経営者です。
実践としての遂行 戦略が日々の活動の中に存在する以上、組織の人々が実際に行動を変えなければ、どれほど優れた分析も戦略にはなりません(=実践としての戦略の領分)。例:AIが生成した優れた戦略文書も、現場の会議・資源配分・優先順位が変わらなければ、実行されない中期経営計画と同じ運命をたどります。
6.2 AIが戦略に与える影響
現在は、自律的に計画を立てて複数のステップを実行するAIエージェントが実用化され、分析だけでなく実行までもが機械化されつつあります。この変化は、戦略の定義と5要素のそれぞれに、以下のような影響を与えると整理できます。
実行の優位はコモディティ化し、「賭け」の価値が上がる(定義の変化) 業務の効率化はそれ自体は戦略ではない、という古典的な指摘は、エージェント時代にいっそう強まります。誰もが高品質な実行を安価に手に入れられるほど、企業間の差は「何を捨て何に賭けるか」という選択の質に集中していくからです (Porter, 1996)。例:エージェントで営業・開発・分析を自動化した2社が並んだとき、勝敗を分けるのは自動化の巧拙ではなく、どの市場でどの仮説に賭けたかです。
超ニッチが戦える土俵になる(Arenasの変化) エージェントが業務の限界費用を下げると、これまで「市場が小さすぎて事業として成立しなかった」セグメントがサービス提供可能になります。人を雇えば赤字になる規模の顧客層でも、エージェント主体の提供なら成立するためです。戦える土俵の最小単位が細かくなり、局地戦の選択肢はむしろ広がります。例:これまでコンサルタントを付けられなかった小規模事業者向けの専門アドバイザリーは、エージェントによって初めて採算の合うArenasになります。
検証サイクルが桁違いに速くなる(Stagingの変化) 科学的アプローチ(3.2)の仮説検証を、エージェントが並列かつ高速に回せるようになります。市場調査・プロトタイプ・顧客インタビューの分析が週単位から日単位になれば、Stagingの刻みは細かくなり、賭けの単位は小さくなります。ただし、検証が速くなるほど、律速段階は「どの仮説を検証するか」という理論の質に移ります (Felin & Zenger, 2017; Camuffo et al., 2020)。例:100個の仮説を高速に検証できても、100個とも凡庸な仮説なら、得られるのは凡庸な結論だけです。
Moatはデータループとワークフローへ(Differentiatorsの変化) モデルの性能そのものは急速にコモディティ化するため、優位の源泉は、業界固有データの学習ループ、顧客ワークフローへの深い組み込み、補完資産へと移ります。エージェントの導入が進むほど、この傾向は加速します。
企業の境界が動く(Vehiclesの変化) 企業の境界は市場取引のコストと内製のコストの比較で決まる、という古典理論に立ち返ると (Coase, 1937)、AIエージェントは調整・取引のコストを劇的に下げ、「自社でやるか、外部に任せるか」の境界線そのものを動かします (California Management Review, 2025)。Build / Borrow / Buyに、「必要な能力をエージェントとしてオンデマンドに構成する」という第4の到達手段が加わりつつあります。例:これまで買収か採用でしか獲得できなかった専門能力の一部が、エージェントの構成で代替可能になれば、Vehiclesの最適解は変わります。
人月の値付けが崩れ、成果への課金に向かう(Economic Logicの変化) 実行がエージェントに移ると、サービス業の費用構造は労働集約からソフトウェアの構造(限界費用がほぼゼロ)に近づきます。すると「かかった時間に課金する」人月ベースの経済論理は根拠を失い、「生み出した成果に課金する」設計への移行圧力がかかります。例:エージェントが数分で終える業務に人月単価は成立しません。何をどう成果として測り課金するかという課金点の再設計が、この時代のEconomic Logicの中心課題になります。
人間の役割は実行者からエージェントの設計者・監督者へ(実践の変化) エージェントが業務を担う組織では、人間の仕事は実行から、エージェント群への目標設定・制約の設計・監督へと移ります (MIT Sloan Management Review, 2025)。実践としての戦略は消えるのではなく、「どのエージェントに何を任せ、何を任せないか」「エージェントにどの勝利条件と制約を与えるか」という日々の設計判断として現れます。例:エージェントに「売上最大化」とだけ指示すれば、ブランドや長期の顧客関係(別の要素との一貫性)を壊す打ち手も実行しかねません。5要素の一貫性(4.6)を制約として翻訳し、エージェントに与えることが、新しいstrategizingです。
AI時代の戦略とは、分析・実行・検証が機械によって高速かつ安価になった環境で、なお人間に残された意思決定、つまり、どのゲームを、何を勝ちとしてプレイするかを定義し、検証すべき仮説を選び、資源を投じてコミットし、その結果に責任を負うこと、となります。
7. おわりに
ここでは、戦略というものを網羅的に整理し、AI時代において戦略はどのように変わっていくのかという点についても述べました。戦略ダイヤモンドの5要素は普遍的であるものの、AIによって影響を受けることが想定されるため、企業の在り方も大きく変化が求められることがわかります。
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